歯科経営者に聴く - エルアージュ歯科クリニックの加藤俊夫理事長

歯科経営者に聴く ~第一線で活躍する院長から学ぶ~

ピアウエストスクエア歯科 田中元章 院長

時代の先端を行く高層マンション群・中央区佃リバーシティに立地するピアウエストスクエア歯科。審美治療を中心とするオフィス診療型の歯科を展開中だ。
院長の田中元章先生は1965年生まれ。神奈川歯科大を卒業し、昭和大で臨床研修を積む。その後、医療法人社団裕正会の歯科での勤務を経て、1998年ピアウエストスクエア歯科を開院。
中央区佃を立地に定めるまでの葛藤から、専門家を生かしたハイクオリティーな歯科治療まで、幅広くお話を伺った。

審美治療を目指して

ピアウエストスクエア歯科田中先生は祖父の代から続くお菓子の問屋に生まれた。家を継げば三代目となったのだが、流通システムの変化が家業を直撃。先生の運命も変わった。
次々進出してきた大手のスーパーは、問屋を通さずにメーカーから直接品物を仕入れます。問屋業そのものが先細りしていくうえに、お菓子は単価が低く、家業としての見通しも明るくない。父は私に家を継がせるべきではないと考え、「お前はどこへ行っても通用するように、手に職をつけろ」と言ったのです。
歯科に進むのを決めたきっかけですが、親戚に歯科医がいたり、高校時代のスキーツアーで歯科大生と仲良くなったり、歯科について興味を持つ機会が多くあったことですね。

先生はもともとは勉強嫌いであったという。歯学部の受験には困難もあったというが、神奈川歯科大に合格した。

硬式テニス部に入ったのですが、練習が想像を絶するほど厳しかったんです。でもここでの人脈が後々大きな助けになりました。助けあい競いあえる友達や先輩後輩は、自分にとって大きなプラスでした。

卒業後は臨床研修医として昭和大学に進む。基礎歯学・臨床歯学をそれぞれ2年、合わせて4年間在籍した。

臨床の2年間は歯内治療学を専攻しました。そこで教わった松本光吉教授は、歯科治療におけるレーザー研究の権威で、私も研究に携わりました。当時のレーザーは出力が安定せず、実際の治療には使えない段階だったので、それから見ると今の技術の進歩はすごいですね。
当時の昭和大は、臨床研修歯科医の給与は4万5千円でした。ある時には診療ポストが一つしかなく、そこに私も含め希望者が6人もやってきた。6人とも雇う代わりに給料も6等分ということになって、私たちは7500円の給与で研修歯科医をしていました(笑)。さすがに生活は苦しくアルバイトもしましたが、一本立ちするまでは収入が少なくても仕方がないと思います。

その後、医療法人社団 裕正会で勤務するチャンスを得たが、大きな壁が待ち受けていた。

ピアウエストスクエア歯科大学病院で取り組んだのは保険診療がほとんどでした。こちらでも最初は保険診療をメインにしながら、徐々に自費診療の多様な技術を覚えていくつもりでした。ところが自費を選択する患者さんがほとんどだったのです。
オフィス診療に関心がありましたし、将来的に審美治療がやりたかったので環境としては申し分無かったのですが、いかんせん技術的に通じなかったのです。幸い、裕正会は勤務医を育てようとバックアップしてくれていたので、国際デンタルアカデミーに1年間通うことになりました。学費は裕正会が前払いしてくれて、その後給料から差し引いてもらったのです。全額返し終わるまで2年半かかりましたが、今の自分の礎になっていることは間違いありません。
アカデミーでは審美、矯正、インプラントまで幅広く学ぶことができました。何より良かったのは、土日に学校に通って学んだことを翌週からすぐに患者さんにフィードバックできる場がクリニックにあったことです。あんなに自分のためになった学習は初めてで、裕正会には本当に感謝しています。

開業を志すようになった田中先生は、開業場所選びに頭を悩ませることになる。成功へのアドバイスをくれたのもやはり父であった。

ある日、神奈川県の江ノ島で地域の病院が分院として運営していたクリニックを売りに出すことになったのですが、ここは1000万円で開業できる状況でした。同級生が勤めており、患者さんの状況は聞いていましたからやる価値はあると思ってました。そんな折に現在クリニックのある中央区佃のこの場所の情報が飛び込んで来ました。しかし問題は金銭面で、こちらは保証金だけで1000万かかるということでした。中央区佃の条件は魅力でしたが、資金面からすれば江ノ島の方がはるかに安い。江ノ島で基盤を作ってから都心に進出しても遅くないなぁ…そう思っていたところ、父に言われました。「やりたい診療により適した場所でやるべきだ。元手はかかっても、中央区佃で勝負してみろ」父の言葉に背中を押してもらいましたね。スタートは大変でもここでやってみようと決めました。

(ちなみにこの話には後日談がある。江ノ島の物件は諦めたが、そこで勤務していた女性歯科医は後の田中先生の奥様なのだそうだ。)田中先生は祖父の代から続くお菓子の問屋に生まれた。家を継げば三代目となったのだが、流通システムの変化が家業を直撃。先生の運命も変わった。
次々進出してきた大手のスーパーは、問屋を通さずにメーカーから直接品物を仕入れます。問屋業そのものが先細りしていくうえに、お菓子は単価が低く、家業としての見通しも明るくない。父は私に家を継がせるべきではないと考え、「お前はどこへ行っても通用するように、手に職をつけろ」と言ったのです。
歯科に進むのを決めたきっかけですが、親戚に歯科医がいたり、高校時代のスキーツアーで歯科大生と仲良くなったり、歯科について興味を持つ機会が多くあったことですね。

先生はもともとは勉強嫌いであったという。歯学部の受験には困難もあったというが、神奈川歯科大に合格した。

硬式テニス部に入ったのですが、練習が想像を絶するほど厳しかったんです。でもここでの人脈が後々大きな助けになりました。助けあい競いあえる友達や先輩後輩は、自分にとって大きなプラスでした。

卒業後は臨床研修医として昭和大学に進む。基礎歯学・臨床歯学をそれぞれ2年、合わせて4年間在籍した。

臨床の2年間は歯内治療学を専攻しました。そこで教わった松本光吉教授は、歯科治療におけるレーザー研究の権威で、私も研究に携わりました。当時のレーザーは出力が安定せず、実際の治療には使えない段階だったので、それから見ると今の技術の進歩はすごいですね。
当時の昭和大は、臨床研修歯科医の給与は4万5千円でした。ある時には診療ポストが一つしかなく、そこに私も含め希望者が6人もやってきた。6人とも雇う代わりに給料も6等分ということになって、私たちは7500円の給与で研修歯科医をしていました(笑)。さすがに生活は苦しくアルバイトもしましたが、一本立ちするまでは収入が少なくても仕方がないと思います。

その後、医療法人社団 裕正会で勤務するチャンスを得たが、大きな壁が待ち受けていた。

ピアウエストスクエア歯科大学病院で取り組んだのは保険診療がほとんどでした。こちらでも最初は保険診療をメインにしながら、徐々に自費診療の多様な技術を覚えていくつもりでした。ところが自費を選択する患者さんがほとんどだったのです。
オフィス診療に関心がありましたし、将来的に審美治療がやりたかったので環境としては申し分無かったのですが、いかんせん技術的に通じなかったのです。幸い、裕正会は勤務医を育てようとバックアップしてくれていたので、国際デンタルアカデミーに1年間通うことになりました。学費は裕正会が前払いしてくれて、その後給料から差し引いてもらったのです。全額返し終わるまで2年半かかりましたが、今の自分の礎になっていることは間違いありません。
アカデミーでは審美、矯正、インプラントまで幅広く学ぶことができました。何より良かったのは、土日に学校に通って学んだことを翌週からすぐに患者さんにフィードバックできる場がクリニックにあったことです。あんなに自分のためになった学習は初めてで、裕正会には本当に感謝しています。

開業を志すようになった田中先生は、開業場所選びに頭を悩ませることになる。成功へのアドバイスをくれたのもやはり父であった。

ある日、神奈川県の江ノ島で地域の病院が分院として運営していたクリニックを売りに出すことになったのですが、ここは1000万円で開業できる状況でした。同級生が勤めており、患者さんの状況は聞いていましたからやる価値はあると思ってました。そんな折に現在クリニックのある中央区佃のこの場所の情報が飛び込んで来ました。しかし問題は金銭面で、こちらは保証金だけで1000万かかるということでした。中央区佃の条件は魅力でしたが、資金面からすれば江ノ島の方がはるかに安い。江ノ島で基盤を作ってから都心に進出しても遅くないなぁ…そう思っていたところ、父に言われました。「やりたい診療により適した場所でやるべきだ。元手はかかっても、中央区佃で勝負してみろ」父の言葉に背中を押してもらいましたね。スタートは大変でもここでやってみようと決めました。

(ちなみにこの話には後日談がある。江ノ島の物件は諦めたが、そこで勤務していた女性歯科医は後の田中先生の奥様なのだそうだ。)

専門集団による分業制

ピアウエストスクエア歯科1998年12月、ピアウエストスクエア歯科がオープンする。周辺の住民は高所得者が多く、審美歯科の潜在的なニーズはある立地であった。
富裕層の患者さんたちの中には、親戚に歯科医がいる方も結構いらっしゃいます。ですので患者さんに治療計画書を渡し、親戚の歯科医にセカンドオピニオンを求めるように務めました。これは患者さんの安心にも繋がりましたし、私にもプラスになりました。

この話でもわかる通り、先生の診療姿勢はあくまで患者本位で、柔軟な考え方が光る。それはスペシャリストの招聘と分業体制の確立にも見られる。

開院当初、小児歯科は妻に頼んでいました(奥様は小児歯科専門)。子供ができてからは、代わりに日本歯科大出身の小児歯科専門医に勤務をお願いしました。もちろん、小児歯科の専門医でなくても子供さんの診療はできます。しかしご両親からすると、小児専門の歯科医に診せたいものです。内科よりも小児科専門医に診せたいというのと同じですね。最初から専門家に任せるつもりでいました。矯正、セラミック、インプラントに関しても同様です。

また、先生自身の専門はホワイトニングである。学生時代から強い興味があり、裕正会時代も院内で行っているドクターはまだ少なかったが、その機会を得て推進して行った。

昔は日本に薬剤がなく、アメリカから輸入していました。あるメーカーの薬剤が効果的で気に入っていましたね。その後、日本でも認可が下りて販売されるわけですが、これが使ってみると白くなりにくい。成分が弱くなっていたんです。
開業して1年経ったころ、現在使っている「ブライトスマイル」を知りました。この販売元は世界に1700のホワイトニングサロンを展開していて、日本に進出する際にモニターを募集していたのです。幸い、当院もモニターに選ばれました。

将来展望―――ホテル仕様の高級歯科医院

ピアウエストスクエア歯科開業8年目に入り、先生はこれまで培ったものを集大成したいと話す。
エステサロン形式の医院が今の流行ですが、患者さんの満足を考えるとホテル仕様が理想ですね。患者さんにくつろいでいただき、喜んでお帰りいただけるような、高級感を演出していきたい。患者さんには懇切丁寧に接するよう、スタッフ教育や研修を充実していきたい。

治療面で高級感を出す上でも、分業制が適しているという。

矯正なら矯正、インプラントならインプラントの専門医を招くことで、患者さんは頼りがいを感じてくださいます。良質で確実な治療を積み重ねることで、医院がブランド化していくのです。高級なサービスとは、患者さんのトータルの満足度を最大にすることです。治療面での理想は、ホワイトニングとセラミックを合わせた、ノンメタルの審美治療を確立していくことですね。

開業を目指す歯科医へ

ピアウエストスクエア歯科先生から見た現在の歯科医療は、歯学生や研修医が学ぶ上で難しい状況だという。
今は昔と違って臨床経験を多く積める場所がなかなかありません。また大学自体も昔よりも臨床が少なく、卒業して3年ぐらいでやっと僕らの新卒時のレベルに到達します。年齢に給料が見合わないケースが、これからはもっと増えるでしょう。若い歯科医には苦しい時代ですが、とにかく臨床を多くこなして実力を身につけて欲しいですね。

開業に関しては「慎重に考えるべき」と警告した上で、3つの条件が噛み合う必要があると話す。

「やりたい医療」「市場のニーズ」「資金」この3つがマッチしなければ上手くいきません。手ごろな価格の物件があれば心が動くとは思いますが、物件の周辺住民のニーズをよく見極めた上で踏み切るべきです。私の場合、審美治療をやりたかったので、自費診療を受けられる高所得者が多い地域を選びました。

最後に、歯科経営の心構えを説いてもらった。

歯科を開業し、運営していく上で肝に銘じてもらいたいのは、「1人では何もできない」ということです。院長である以上は経営にも力を注がねばならず、一人相撲では絶対に無理がきます。衛生士をはじめとする医院スタッフに対しては勿論のこと、必要な分野には専門的人材を招いて、任せるべきところは任せるのも大切なことでしょう。それが結果として、患者さんのニーズに応えることになると思うのです。