歯科経営者に聴く ~第一線で活躍する院長から学ぶ~

卒後の自己投資/O 先生に聞く

都内某所、駅前の絶好のロケーションに位置するA歯科医院。その 階下には美容外科が入居している。この二つの医院を経営するのがO先生だ。不正咬合に関する著書で一世を風靡し、整体や鍼灸を学び、心理技能士の資格も持つ。常に新しいことに取り組む姿勢を崩さず、積極的な医院経営を進める。
今回は、匿名を条件にこのO先生にお話しを伺った。

O 先生

1.咬合と出会うまで

「歯科医は色気がないとダメですよ。技術はあって当たり前です」 恐ろしくエネルギッシュな人だ。いろいろな医業経営者の方にお目にかかったが、これほどパワーをみなぎらせている人物はそういない。「色気」を越えて「生命力」のようなオーラが全身から放たれている。 パワーは持って生まれたもののようだが、今の「色気」に至る道は、やはり平坦ではなかった。 昭和58年、大学を卒業した。もし大学に残るなら口腔外科か矯正だと思っていた。見学したところ、研究室は「トローンとした雰囲気」だったという。生ぬるい世界を嫌い、社会に出るほうを選んだ。 先輩の紹介で都下のクリニックに就職した。当時で41万という初任給に惹かれたという。 だが、高い給与は伊達ではなかった。一日に五十人の患者さんを診なければならず、午後五時の時点で、毎日カルテが十数枚並んでいた。人をさばくのに必死で、満足な治療ができているとは言いがたかった。

O 先生 「治すというよりは、どうやって帰すか、という世界ですよ。『学校は教習所、卒業してからが路上』と言いますが、患者さんが多すぎて、その教習所レベルのことすら実行できないのです。あまりに治療が疎かになるので総院長先生に相談したところ、『大学のことは忘れろ』と言われてしまいました。見よう見真似でとにかくこなせ、ということです。」 技術にも学問にも自信があった。大学では学年で一番手が速かった。手技だけでなく、口頭諮問にも適格に答えた。子供の頃から書籍代を惜しまず勉強し、大学ではインストラクター用の教科書まで読んでいたのだ。 それだけに、学んだものが生かせない環境には悩んだ。 「『先生』と呼ばれると、なんだか後ろめたい気がするのですよ。恥ずかしいのです。人間というのは自分の中に一点でも曇りがあると、自信が持てないのです。『ここにいてはダメだ』と思いました。」 そんなある日、歯科雑誌で気になる論文を見つけた。『噛み合わせで病気が治る』。「これだ!」と思った。
論文の末尾に求人があるのを見逃さず、次の日には医院を訪ねた。そこで行われていたのは、見たこともない治療だった。 「例えばクラウンです。銀紙を噛んでもらって微調整していたのですが、銀紙の厚さというのは12.5ミクロンですよ。そんな世界で調整をしているのです。 フルデンチャーの患者さんのところに連れて行かれ、『上の入れ歯を外してみなさい』と言われました。引っ張っても外れません。見事に密着していて、力では外せないのです。 『自分が今までやってきたのは何だったのだ』と思いました。」 決断すると、行動は早かった。勤めていた医院に退職する旨を告げ、新しい勤務先に引越し代を前借りしてまで転職した。

2.自己投資

だが、待っていたのは殺人的な生活だった。咬合に関する講習会への参加が義務付けられたが、それぞれ120万と80万の費用がかかった。月に二回のセミナーで、休日と大金が一気に奪われた。残りの日は朝の九時から夜の九時まで診療だった。 「自分では超人だと思っていましたが、これには参りました。発狂寸前でした。ただでさえも借金して引っ越したのに、勉強代で毎月大出費です。働くしかありませんでした。」 そんな生活が一年続いた。学んだことは多かったが、新しい世界も見てみたくなった。知り合いの伝で、今度は総合病院の歯科に勤めることになった。 元々腕には自信があったが、厳しい「修行生活」を続けるうちに、スキルは更に向上していた。病院の求めた売上げを達成するのは、造作もないことだった。 加えて、「患者さんとノリが合った」という。病院の待遇も良かった。交通事故の症例など、総合病院ならではのケースにも出会った。一方で、医師と歯科医師の扱いの違いなど、他では体験できないものを見ることもあった。 悪くない生活だったが、開業という大きな夢を前に、一年半で退職した。 「始めは帝国ホテルでやりたかったのですよ。でも、一億円が必要でした。バブル前の一億は大きかったです。結局七千万円しか作れませんでした。初めて挫折を知りましたよ。」 傷心で車を走らせているときに、ふと建設中のマンションが目にとまった。降りて周りを見渡した。景色も良く、「ここで開業しよう」と思い立った。 ところが、これが苦難の始まりだった。

3.開業、そして転機

O 先生 「オートロックのマンションで、建物の裏側の部屋です。看板も地面に置く小さなものしか出せませんでした。誰も来ませんよ。」
自費はもちろん、保険診療の患者さんも集まらなかった。暇を持て余して寝てばかりいた。 とうとう、次の月の家賃が払えない、という状況がやってきた。意を決して、近所に挨拶回りに出ることにした。 「営業なんて、学生時代にアルバイトでやった学習機材セールス以来でした。近くの企業を一軒一軒回りながら、情けなくなりました。一番上手いと思っていたのに、一番苦労している気がしました。技術があれば評価されるものと思っていましたが、『技術とお金は別』と思い知らされましたよ。真剣に、『どうしたら患者さんに来てもらえるか』と考えました。」 地道な活動が功を奏して、少しずつ保険診療の患者さんが訪れるようになった。一人一人、一所懸命に治療した。 そんな時期だった。異業種交流で知り合ったコネクションから出版した本が、ベストセラーになった。1990年の11月のことだった。 「不正咬合に関する本は、当時まだ珍しかったのです。日本全国から患者さんがお見えになり、気が狂うほど働きましたよ。」 精力的に治療をこなしては、夜の街に繰り出す。そんな生活が三年続いた。「超人」を自称するだけあり、聞けば聞くほど人間離れした体力だ。 だがそれも長くは続かなかった。93年、バブルが崩壊し、売り上げが激減したのだ。期を一にするように体調も思わしくなくなった。 「36歳の時からです。厄年なんて信じていませんでしたが、本当にありますよ。ホルモンのバランス等が変化する時期なのでしょうね。大好きだったシガーも吸えなくなりました。」 悪いことが続いた。同業者の羨望から、訴訟騒ぎを起こされたりした。似たような状況で自殺まで追い込まれた同級生がいたが、他人事ではなかった。地道な治療を続けるしかなかった。 辛くても逃げなかった。前を向いて懸命に進めば、道は開けてくる。不運の嵐が過ぎ去ると、少しずつ体調の方も回復してきた。

4.A歯科医院

O 先生 そうしているうちに、またも思わぬチャンスが訪れた。
診療所の入っていたマンションは、退去時の現状復帰が契約に盛り込まれていた。試算すると500万もかかることがわかり、長い間迷っていた。それが、マンション全体の改築に伴って無償で退去できるという知らせがやってきたのだ。たまたま診療に余裕のある日のことだった。これまた偶然居合わせた材料業者に尋ねると、「良い物件がある」と言う。その日の晩には不動産業者と共に現地を訪れていた。幸運もさることながら、それを逃がさない行動力も尋常ではない。トントン拍子で、現在の立地への移転が決まった。 「ここでは、最初から患者さんが見えたのですよ。土地の勢いというのがあるのでしょうね。 前の診療所では、自分で引っ張らなければ患者さんは来院されませんでした。それで引く力が付いたというのもあります。土地の勢いプラス引く力で、出足から好調でした。」 往診、保険、自費を三大柱として、医院を切り盛りした。だが、さすがのO先生もやはり「超人」というわけではなかった。 「手が腱鞘炎になってしまったのですよ。不死身だと思っていましたが、そうでもありませんでした。それで人を雇い、マイペースで診療できる体制に移行したのです。お陰で手の方は万全ですけれどね。」 自ら手を動かす治療は減ったが、経営者としてはますます研ぎ澄まされていっていた。医療制度改革の煽りで往診が一時期できなくなったとき、考えた。 「数ヶ月とはいえ、保険の収入が激減しました。やはり柱は多い方が良いです。収入源が分散していれば、もしもの時にも安定した経営ができるでしょう。」 ある美容外科が歯科で売り上げの四割を稼ぐという話を聞き、「それなら歯科が美容外科をやってもいいじゃないか」と思いついた。三本柱に美容外科が加わって、四つの柱になった。 「美容外科は歯科と同じようにはできません。口コミというのがないですから、宣伝が命です。宣伝はバクチのようなもので、打ってどれだけ返ってくるかというのは、やってみなければわかりません。お陰でノウハウが身に付き、歯科にも生かせるようになりました。これだけは秘密なので教えられませんけれどね。」

5.若手へのメッセージ

エネルギーの固まりのようなO先生から、メッセージを頂戴した。 「自己投資しなさい。これに尽きます。 投資には五つの投資があると言います。自己への投資、人脈への投資、ビジネスへの投資、寄付行為への投資、株式への投資です。このうち自己と人脈に投資するのです。若いうちに借金してでもスキルを身につけなければ、その先はありません。『講習会に大金を払っていた』と話すと、お金に不自由していなかったと思われることがあります。とんでもありません。誰が余ったお金と時間で勉強したというのですか。お金も時間も自分で作るのです。同じお金で、ベンツを買ったらどうなります?それで終わりでしょう。そうではなく、身に付くものに投資するのです。
それから、攻めの姿勢を崩さないことです。開業しようという時に、競争相手の少ない田舎に引っ込む人がいます。すぐに後進が来て、結局追い込まれます。逃げの姿勢ではダメなのです。競争から逃げず、都内で開業できる技術を身につけるのです。そのためには、親に借金してでも勉強しなさい。」 スキルの重要性を説くO先生だが、それだけでもまだ足りないという。 「技術・スピード・決断力、これらは開業を支える車の片輪です。もう片方の車輪は『色気』です。人間としての魅力、ということです。人間性を磨こうと思ったら、若いうちから色々な人と交流することです。同業者とばかり付き合っているようではいけません。『技術が出来てから人間性を』などと思っていると、あっと言う間に一生が終わってしまいます。同時にやらなければなりません。直接人と接する仕事なのですから、患者さんに学者バカだと思われてしまったら話になりませんよ。」 訴訟騒ぎに巻き込まれたり、体を壊されたりと、O先生の人生は決して順風満帆だったわけではない。だが困難に出会っても逃げず、正面から取り組んできたことが、道を開いてきたのだ。 その勢いは、まだまだ衰えそうにない。 「人生はテレビゲームと一緒だね。せっかくクリアしたと思ったら、すぐ次の場面に変わり新たな敵が出てくるんだ。」